ゆうすけブログ
読書人の限界
幼少の頃から本が好きでよく読んできました。
趣味はと訊かれて「読書」と答えたことはなく、それは生活の一部であり趣味の領域を超えていたと思います。
ともかく寝ている時と学校で授業を受けている時以外は読書。
歩きながらでも、お風呂に入っている時も、食事をしながら本を読み、子どもの頃は母によく叱られ、結婚してからは妻にどやされていました。
本を読むということが私にとっては水を飲むぐらいに自然な行為と言えるぐらいに同異義語的でもありました。
親戚のおじさんが「ゆうすけ君はよく本を読んで感心だね」とか褒めてくれてもそれについて嬉しいとか照れるではなく「君は水をよく飲むね」ぐらいにしか取っていなかったのです。
だからと言って学業優秀かといえば同級生に訊いてもらってもわかりますがむしろ劣等生の類でした。
何しろ読書を他のすべてに優先するのです。
試験の前日でも寸暇を惜しんで読書。
決まり切った教科書や参考書を読んだり、問題集を解いたりするよりも読書の世界の方が遥かに刺激に満ちていて面白いのですから試験は赤点連発、進学断念寸前でした。

そんな一種の活字中毒である私でも浪人して強制的に勉強(これも勉めて強いるとはよく言ったものです)をせざるを得ない環境に身を置き、やっと東京の西はずれにある学校に行きました。
なぜ勉強嫌いなのに進学を目指したのか?
実社会に出るより学生でいた方が本が読めるというただそれだけの動機でした。

ある日、友人に誘われて文京区本郷にジャーナリスト・立花 隆氏の講演を聞きに行きました。
当時の立花氏は文藝春秋に「田中角栄ーその人脈と金脈」を載せ、司法をして(首相の犯罪)と言われたロッキード事件を追及させしめ、田中氏をペンの力で有罪に持ち込んだと(知の巨人)とも称えられマスコミ志望の学生には絶大な人気がありました。
演題は「僕はこんな本を読んできた」だったと思います。
氏がいろいろな本の名前を挙げる度に学生たちがノートに書き込んだりしていましたが、私は(あ、それ読んだ、それも)という感じでおよそ謙虚さの欠片もない受講生でした。
寿司屋に例えると握り方はもうわかっている、あとはネタ次第、そのネタの入手先を教えてくれという心境でした。

学校の図書館でショーペンハウエルの小文「読書について」を読んだ時、ハウエル先生は「読書ばかりをしていて思考という作業を怠っていると自分で考えることができなくなる」と警鐘を鳴らしていました。
これに覚えがあった私は自分がいつも発している言葉や導き出す考えが本に頼るものではないかと恐れをいだき、その日から(思考タイム)と名付け、1時間ばかり「自由」とか「権利」などテーマを決めてノートに書き込み、それをチエックしては論理のアラがないかを検証してまた書くという作業を続けたりしていました。

この年になってつくづく思うのは人生において読書は「必要条件」ではあるが「十分条件」ではなかったということです。
世の中は理論や理屈が通らないことがいくらでもあり、時としてそれが「正義」としてまかり通るという現実を何度も見てきました。
名経営者や政治家でも読書家として通っている方もおられますがあくまで「武器」としての読書であり、それぞれの仕事の成果はやはり「実践」として出しておられるというすごく当たり前の現実です。
私が勉強をしなければならなかった時は面白くなくても試験対策をしなければならなかったのと同じで「現実逃避としての読書」に更けている場合ではなかったのです。
学生の本分は勉強であり、社会人ならそれぞれの仕事に成果を示すということでしょう。
私が妻から「この文弱の徒が!」と叱咤され激励されない毎日を送っていることを告白して今日のブログを終えます。







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