ゆうすけブログ
誰かが見ている
昨夜はマキノサマーカーニバルの帰りにあるコンビニに寄りました。
トイレを借りたら「近頃、トイレットペーパーを大量に流し詰まらせるいたずらが頻発しておりカメラで監視しています」と書かれていました。
幼稚ないたずらには困ったものだがカメラの監視は店のはったりだろうと思いました。
トイレと言う場所は個人の究極のプライバシーが発露するところ、これをビデオ撮影していたら今度は店が訴えられますから。

道路を走っていたら目の前にピザ屋さんの宅配バイクが。
後ろに(ドライブレコーダー搭載車)と札が貼っていました。
たぶんですが営業のバイクだとたかを括って後ろから車で煽るような不埒な輩がいるからその自衛手段でしょう。
おそらくレコーダーは搭載していません、これもブラフです。

老人がお一人でお住いのお宅に訪問したら玄関に警備保障のシールが貼ってありました。
「警備保障と契約されてるんですか?」と何気なくお聞きしたら、「最近ぶっそうだからね、でもシールを貼ってるだけ」との返答。

人は誰かが見ているという心理が働いたら悪事の行使が抑制されるのでしょうか。
私の子どもの頃は大人から「悪いことをしたらダメだよ、みんなお天道さまが見ているからね」とよく戒められたものです。
最近は仏教で言う(末法)。
仏さえ見捨てた世に成り果て天道の見守りなど誰も信じないから監視カメラなどがその代わりをしている情けない世になってきているのかと考えてしまいます。
人間は本来、誰もいなかったら悪事を働くことを躊躇しないのか。
これでは荀子の説く(性悪説)丸っぽの社会です。

イギリスの法学者であるジェレミー・ベンサムによると「パノプィテコン」という概念で表しています。
これは監獄で囚人を監視する建築上の仕組みで監視塔を中心とした収容者の部屋を円形に配置すれば監視塔からはすべての牢獄をもれなく監視することができるというものです。
要点は監視者からは囚人を見ることはできるが囚人からは監視塔の内部を見れないことです。
つまり、実際は監視塔に人がいる必要がないということです。
囚人からすると常に監視されている状態に置かれることにより(第二の監視者)が現れることになります。
つまりは(自分)です。
囚人は自らを内面から律する主体(サブジェクト)となっていき社会に順応していくという考えです。

ミシェル・フーコーは自分からこのように社会に進んで適応していく有様に注目して(規律訓練)と呼びましたがこれは軍隊・病院・工場・学校等社会のそれぞれの場所でそれとなく浸透している考え方です。
そこで前段に戻っての疑問ですが「私たちは本当に誰かに監視されないと、評価されないと正しい行動ができないのでしょうか」という思考の袋小路に迷い込んでしまいます。




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